2011年9月10日土曜日

【安田和也さんトークセッション】終了いたしました

9日は、第五福竜丸展示館学芸員・安田和也さんによる、第五福竜丸の被爆の状況や日本社会がそれをどう受け止めたかというお話をうかがいました。
ご報告を一部ご紹介いたします。

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第五福竜丸は、敗戦直後の数年間のみ建造された、木造の遠洋漁業船のなかで唯一残っている船です。その意味で、平和遺産でもあり、また産業文化遺産でもあるのですが、その建造の経緯、被爆の状況、被爆後の受け止められ方には、戦前・戦中・戦後に日本が歩んだ歴史が色濃く反映しています。
戦争中、日本軍は漁船及び漁民を、輸送や哨戒などのために徴用しました。漁船ですから武器もほとんど備え付けておらず、 敵軍に見つかれば真っ先に攻撃され、軍属となった漁師の死者の正確な数は今日でもわかっていません。5~6万人ともいわれているそうです。
戦後、もうれつな食糧難に際し、日本政府は漁業復興による食糧確保をめざします。しかし連合国により、航空機と船舶の建造には制限がもうけられていました。日本政府と水産業界がGHQと交渉をくりかえした結果認められたのが、100トン未満の木造船で、第五福竜丸はその一隻だったのです。

当時、遠洋漁業の操業期間はおおよそ1ヶ月半で、その間船はどこにも寄港しませんでした。遠洋漁業が向かう南洋は、戦前から戦中にかけて、日本軍が苦しめた地域だったためです。
とりわけ被爆時に第五福竜丸が航行していた海域は日本軍が大敗を喫したミッドウェーに近く、漁師たちには、死んだ日本兵に海に引きずり込まれると、恐れられている場所でした。

1954年3月1日朝、第五福竜丸の乗組員は、西方向に大きな火の玉を見ました。ひょっとしたら原爆実験ではないか、と思い、急いではえ縄を引き上げました。その作業中に、「死の灰」を大量に浴びたのでした。米ソの核兵器開発競争が激しくなっていたこの時期、第五福竜丸が被爆した3月から5月にかけて、アメリカは実に6回の水爆実験をこの海域で行っていました。
福竜丸の無線長であり、半年後に急性放射能障害で亡くなる無線長の久保山愛吉さんは、このとき母港焼津に無線を打っていません。無線を打てば米軍に傍受され、拿捕されると、戦中徴用されていたときの経験から考えたためです。実際には、米軍は、水爆の予想以上の爆発規模に、実験域から一時撤退をしていたため、第五福竜丸を見つけていなかったといわれています。

3月16日に帰港。2日後に読売新聞が、詳細な記事のスクープを出します。
当時あまり知られていなかった「水爆」ということばがすでに記事には現れています。読売新聞はこのとき原水爆の特集記事を準備しており、勉強していた記者がいたためです。その後彼らは、「原子力の平和利用」の急先鋒となっていきます。

・放射能障害の治療:ともかく放射性物質が体内から排出されるのを安静にして待つしかない、という点で、今日も基本的には変わらない
・食品の汚染:基準値以上の食品の廃棄。しかし、54年末に検査は突然廃止される。
・海中の放射性物質の移動:拡散・希釈することはなく、かたまって海流に乗って移動する。

こうしたことが日本の科学者たちの手によって明らかにされ、全国で原水爆反対の声が高まりますが、日米政府の政治決着によって、1954年末にこの問題はふたをされ、年が明けてからは新聞報道も立ち消えていきました。

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このトークセッションがおこなわれた9月9日、読売新聞は「核実験のマーシャル諸島 半世紀を経て帰島進む」という記事を掲載しました。しかし記事の内容は、「帰島」 とは程遠い状況を語っています。除染は実施されていますが、50年後の現在も線量が高く入れない場所がある、というものです。安田さんはこの記事に触れ、いったい何を言おうとしているのか、と問いを投げかけて、お話を終えられました。

放射線障害の治療の難しさ、食品の汚染をどこまで排除できるか、除染…こうしたことを、「生々しい」と感じる日々を、私たちは生きているのだという恐ろしい事態を感じずにはいられませんでした。

最後にご感想をひとつご紹介いたします。

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石巻・女川の人々と交流していますが、海洋汚染への不安は高まるばかりという中で、毎日のように石巻でも水揚げのニュースがバンバン報じられています。怖いのは風評被害ではなく、原発事故による放射能被害です。第五福竜丸-福島はいろんなことすべてとつながっていることを感じています。(Sさん)

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ありがとうございました。

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